さいころ

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知足 2003/3/11


今回は目に付いた新聞記事から。

日本が豊かな時代と言われて久しいが、10年前には考えられなかった事件が世をにぎわし、それも特異ではなくなってきた。

一方では貧困にあえぎ、飢餓により死亡する人々がい、一方では飽満をうそぶく。


25年以上前から、食糧危機、環境破壊、人体の生理機能崩壊を警告してきた西丸 震哉さんの新著「食物崩壊」。

人間の生理機構としては「欠乏」が正常なのであって、シベリアの原野をえさを求めてうろつくオオカミが生物の理想の姿、という彼の言葉にいたくひかれた。

古くから言われる「足るを知る」ことこそが人生の真の楽しみでもある、という言葉を思い出した。

単なる節約を説いた言葉ではなく、今ある物の中に喜び、楽しみを見出すのが「知足」であろう。

毎日のくらしの中にある何気ないことの、中の小さな喜びこそが幸せの本体なのかもしれない。


泣娘?? 2001/11/27


 家族と合流して一ヶ月余りが過ぎた。生まれたのは5月だが、一緒に住むまでの間は父親になったという現実は理解していたが、身体と心では分かっていなかった。
 生活を共にするようになって、人の親になったことを実感した。
 人間、自分の身体で体験しないと分からないことだらけである。そして全ての経験が己の血となり肉となりうる。それを生かすも殺すも自分次第である
 さて、今回は「泣く」ということについて。
 子供はよく泣く。
 おむつを変えて欲しい、お腹がすいた、眠い、などなど
あらゆる思いを泣くことで伝えてくる。
「眠いなら泣かずに寝ろ!」
と切に思うがどうやらそうもいかないらしい。
 泣くということでしか人へ伝える手段がないから仕方ないと諦める。

 赤ちゃんに限らず人はよく泣く。
 悲しいと言っては泣き、辛いと言って泣く。感動した、嬉しい、と言っても泣く。
 人間の生活のあらゆる場面で「泣く」場面がある。小説、映画では泣くシーンがメインの場合すらある。
(ふむ・・・。泣くというのは、人間のもっとも根源的な行動であり、人間の行動の中心となるものではないのか。悲しいときに笑うことはできないが、嬉しいときに人はよく泣く)
 泣くとは一体何なのだろう。

 人は辛く、悲しいときに大声をあげて泣く。
 そして、重く、また際限なく小さな次なる一歩を踏み出す。
 その先に明るい未来があると信じて。


清泉   2001/06/18

   秩父の山奥にある荒川の上流を歩いて下った。
 車がやっと通れるほどの山道を登ると、「国有林 関係者以外立ち入り禁止」の看板があり、道はそこで終わっていた。その場所に車を止め、下ったのだ。
 瓦礫の山肌を20mほど降りると、山肌からしみだした水がちょろちょろと流れていた。まさしく川の源流である。しみだした水が集まり小川になり、さらにその小川が集まって少しずつ大きな川となる。
 想像を絶する程の行程を経て、川は形成される。ひんやりとする空気、刺すような冷たさの水と共にそれを感じた。
 川の上流部は険しい。大きな岩が大いなる存在感をもって散在し、その間を水が流れてゆく。川を下るには、時には大岩から飛び込み、時には天然のスライダーと化した岩を滑り降りる。また、岸の岩をフリークライミングのごとくつたい移動する。
 一つの難所を越え振り返ると、そこにはまさしく地球があった。木々が生い茂り、清冽な水が流れる。地球の息吹を感じた。そして、そこでは生活での瑣末なストレスなどあまりにもちっぽけなものであった。
 人生とは実は単純なものなのかもしれない。
 飯を食い、寝、子供を産み育てる。たったそれだけのシンプルなものであろう。しかし、人はそこに様々な意味を見出し、価値観を求める。そこから芸術、文化も生まれるのだ。
 しかし、たまには全部装飾品を取り払うのもよい。
 心の洗濯をして、自分を見つめなおすのはいかがであろう。


生誕   2001/05/30

  2001年5月16日。双子がこの世に生を受けた。予定日より約一ヶ月半早く生まれた早産ではあった。
  予定日より大分に早いことでもあり、出産は突然の出来事であった。
  里帰り出産のため、妻は実家におり、私は物見遊山の心積もりで妻に会いに行った。久しぶりの対面を楽しみ、床についたその直後に突然破水したのだ。慌しく病院に駆け込み、妻はそのまま入院。お医者様の話では
「できるだけ長く、子供を母体内にとどめる方針でいきます」
と聞いていたのだが、仮眠を取っているときに病院から電話があり、
「もうすぐ生まれます !!!」
との急報を受けた。
  妻の母と一緒に駆けつけると、すでに生まれていた。どうやら電話があったときはすでに生まれていたようだ。
  術後の妻に付き添い、新生児の状態のお話をお医者様から受け、双子の無事を聞いて夫婦でほっと一息ついたらすでにあたりは薄暗くなってきていた。傍らのベッドで寝ている妻の顔には黒々と疲れが浮き出ていた。
  怒涛の一日であった。しかし、これからが大変なのである。
(だが、この一日くらいは喜びに浸ってもよかろう)
  大きな喜びを胸に、祝杯をあげ、そしてこの世で最初の手紙を二人に書いた。

  子供が生まれて一番思ったこと。
「すべてのものが生き生きとして見える。今まで目に付かなかったものにまで息吹を感じ、そして何もしなくても身体から力が湧きあがってくる。頑張るぞ !!!」



審判   2001/03/26

  プロ野球が今年も開幕した。
  先日、西武−ロッテの開幕戦を観戦したが、気になる事があった。
  審判にボールが当たった時、なぜに双方のチームの誰も手当てに出ないのか。自チームの選手であれば、それこそ大袈裟な人数が飛び出して行くというのに。
  審判が一人で悶絶している姿は痛々しいし、それを見ている私たちは歯がゆい思いをする。

  一昨年、外国人審判が途中帰国するという事態が起こった。この事件は、中日の山崎選手が審判のストライクの判定に怒り、山崎選手と星野監督が審判を突き飛ばして退場になり、その数日後にその審判員は「身の危険を感じる」と言って、米国に帰国したというものである。
   当初は日本ではさしたるものとして扱われなかったが、米国で「野蛮な日本プロ野球」と大きく報道されるに至って、日本でも扱いが変った。

  ここでは、外圧がどうのという話をする気はない。
  野球に限らず、日本のスポーツ全般において、審判というものをあまりにも軽視しがちな傾向にあるのではないだろうか。
  そのため、審判員の数が増えないということが審判員の技術向上の妨げにつながり、更にはそのスポーツのレベルの向上すら阻んでいるのではないだろうか。
  乱暴な言い方をすれば、選手がいなくても審判がいさえすればその競技は成立するのである。そのような重要な位置にいる審判が尊敬されていない今の状況では、競技レベルの向上などいえようもないであろう。

  プロ野球はよくも悪くも日本を代表するスポーツの一つである。
  多くの子供が観戦し、プロ野球選手を夢見る。率先して、スポーツ界全体の事を考えた試合作りをして欲しい。
  まずは、審判員の怪我はホームチームが必ず応急手当をする、ということにしたらいかがだろうか。
  将来の日本チームの飛躍を目指して。



昼休み   1999/01/20

「ずだだだだ!!!!」
その音を初めて聞いたとき、まさに飛び上がらんばかりに驚いた。
訳知りの人の顔を見ると、軽い皮肉を込めて私に教えてくれた。
「いつものことだよ。昼時になるといつもあれさ」

私は今、中野にある某会社に通っている。以前は代々木だったのだが、仕事の都合で
その会社に常駐することになったのだ。
常駐初日にその音を聞いた。
どうやら社食が混むのでいち早く辿り着こうとして階段を駆け降りているらしいのだ。
それも一人や二人ではない。数人、数十人が駆け下りる。そして社食は長蛇の列。それ
が毎日繰り返されている。
会社の規則で12時にならないと席を立ってはいけないのはわかるが、どうにか融通
がきかないものなのだろうか。効率重視のはずの企業がそれでは笑ってしまう。
しかし、それにもましてあんなに並ぶ人たちの気が知れない。20分も待てばすいてい
るというのに…。

ほんの少しの余裕を持てば、ほんの小さな喜びを見つけることができる。そして、そ 
の小さな喜びたちが私たちの心に優しさと勇気を与える。
皆さんも見つけてみませんか?ほら、そこにあるでしょう?

さてと、11時50分だ。12時前に出ないと混むから出るとするかな。